ブランドコンセプト

究めて、オノフである。極めて、上質である。

厳格なルールがあるからこそ、遊びに真剣味が生まれる。
マナーに拘わるからこそ、お互いによい距離でいられる。
そう悟ったとき、大人のゴルフライフがはじまります。
上質さとは、すぐれた能力を
美しいスタイルで表現すること。
オノフは、ふかい満足感で
一日をしめくくるゴルファーのまっすぐな背骨です。

ゴルフシューズから、ひとつかみの 芝が こぼれた。

スコッチ・ウイスキーであれば、
それが生まれたスコットランドの大地の魂が、
どこかに宿っています。
ツイードであれば、
ツイード川を望むなだらかな丘に降り注ぐ陽光が、
こもっているはずです。

すべての比類なきものの誕生には、
大地の精霊と、
慈愛とが渾身の力をふりしぼっているのです。

おなじことが、ゴルフについてもいえるでありましょう。
どれほど秀でたスーパースターが登場しようとも、
どれほどパワフルな道具が開発されようとも、
ゴルフには、
雑草とハリエニシダと野生のヒースに覆われた
リンクスの記憶がしみついています。

いかに穏健な紳士のようであっても、
ゴルフをプレイするものは
「息があるうちは希(こいねが)いつづける」
というセント・アンドリュースの肝っ玉を持っているのです。

ただのスポーツというには、
あまりに野性味とゲーム性がある・・・、
快楽のひとつにするには、
あまりに試練と困難が多すぎる・・・、

ゴルフはむしろ
波瀾にみちた航海に譬えられるかもしれません。

善く一日を闘ってきたゴルファーは、
十年の放浪ののちに帰還した
ギリシャ神話の英雄オディッセウスになぞらえて、
「一日のオディッセウス」
と称ぶことだってできそうです。

オノフが最初にしたことは、
大地の奥深くに湧きいでる水のような、
ゴルフの魂にふれることでした。

ハックルベリーが 筏でミシシッピーを下るように、ホール・アウトした。

21世紀がどんな方向へとわれわれを導いていくのか、まだ予測することはできません。
ただひとつハッキリしていることは、思考を切り換えなければならないということです。
‘持てる国‘の人々が、自発的簡素化によって‘少ないもので、より多くのことをなす’
ライフスタイルを身につけることも、そのひとつでありましょう。
ゴルフを高嶺の花のようにいう人がいますが、もともとは、羊飼いが戯れに棒で
小石を打つことからはじまった遊びでした。それから5世紀くらいは経っているにせよ、
ゴルフを金満家の占有物のようにとらえることは、歴史的にも正しくありません。
感動というものを失いがちな日々にあって、胸を昂らせてくれるものが、いくつあるでしょうか。
ラグビーについての至言「ラグビーは少年を大人に、大人を少年にしてくれる」は、
ゴルフにあてはまらないのでしょうか。そんなはずはありません、
コースに最初に立ったときのことを思い出してください。
ハックルベリーが筏でミシシッピーを下ろうとするように、
大人が少年になれる大いなる冒険であってほしい。
小さなゴルフボールで遊んでいるつもりが、いつのまにか、地球と遊んでいた。
そんなスケール感が、オノフの身上です。

ティ・グランドで、二本足で踏んばったら、地球が丸いなと感じた。

問題は、あらゆるものが、
バラバラであることにありました。
たとえば、クラブ一本とっても、ヘッド、フェイスの大きさ、
材質、反撥エリア、反撥係数、
といったスペック上の数値が一人歩きしていて、
ゴルファーの感じ方については考慮されにくかった。
クラブというものは、
腕の延長としてとらえるべきではないのか。
ヘッドは手、シャフトは腕、
というふうに有機的にとらえられないだろうか。
そのことで示唆的だったのは、
フラドームで有名なバックミンスター・フラー博士の
ユニークな概念「シナジー」でした。
シナジーとは、二種以上の薬を投与して生まれる相乗効果のこと。
フラー博士は、これを「部分部分が協力することによって生まれる、
思ってもみなかったような効果。」
というように転用しています。
オノフは、こうした思考概念にスイッチすることで、
全体が切り離されることのないクラブを開発しました。

一粒の タネを蒔くように、ティ・ぺグを やわらかな 土にさした。

カレル・チャペックの「園芸家の12ヶ月」は、読めば読むほど滋味をます不思議な本です。
草花の育て方について書かれていながら、どうやら人生についてのホロ苦い真実を語っているらしい。
たとえば、こんな一節はどうでしょう、「われわれ園芸家は、未来に生きている。」
たとえ現状が不満足なものであっても、だからこそ来年をたのしみにして待つ・・・、
あるいは現在がパーフェクトなものであっても、本物はこれから先にあるかもしれないと謙虚になる・・・、
こうした耕す人、培養する人のオプティズムに学ぶものがありそうです。
ゴルフはひとりプレイするものが独占できるものではありません。
四世紀以上にもわたり、労苦を共にしてきたキャディの存在も、忘れることはできません。
ゴルフコースを知的空間にまで高めた、優れたコース設計者にも、想いを馳せるべきでしょう。
コースにおける園芸家ともいうべきグリーンキーパーの丹精ぶりにも、感謝をしておかなければと思います。
われわれは、チャペックの述べるところに大きく頷いて、「グリーン・キーパーこそは、
未来に生きているのだと」というかもしれません。オノフが ‘Care Green’ ということを主唱するのは、
ゴルフはわれわれが子孫にのこす貴重な財産の一つと考えているからです。

木の枝にみなれない鳥がとまって、バンカーにてこずるのを、視てた。

あのマーフィーの法則が、最も身にしみて感じられるのは、ゴルフコースをおいてほかにはありません。
曲がらないようにと念じて打つときにかぎって、いつもより大きく曲がってしまう。
あのバンカーにだけはつかまるまいと打ったのに、引き寄せられるようにバンカーに沈んでしまう。
思うようにいかなかったり、裏目に出たり、ゴルファーというものは、
まるで大海原に翻弄される小舟のようじゃありませんか。
しかし、逆に考えるならば、人格を淘治するのにこれほど恰好の場はありません。思い出してみてください。
初めてコースに出たときの、あのなんとも心細い寄る辺なさを。他人の目がなくとも、フェアでいられるか、
どんなピンチに立っても、平静でいられるか、裸にされるのはゴルフの技量だけでなく、全人格そのものです。
ゴルフは、ノブレス・オブリージュ(高貴なる献身)ということを学ばせてくれる、現代では稀なスポーツです。
1992年、アメリカの書店に並んだ ‘小さな赤い本’ の著者であるハービ・ぺニックのことばを引用しておきましょう。
「ゴルフも人生も、フェアに振る舞ったからといって、何も保証されるものではない」。
オノフは、そのことをカジュアルに ‘Love Smile’ と要約してみました。

木の枝にみなれない鳥がとまって、バンカーにてこずるのを、視てた。

白洲次郎という人を、ご存じでしょうか。
白洲正子さんのご主人という説明が手っとり早いのですが、
大きな功績を残しながら、そこから足早に立ち去ったということで、
昭和史の鞍馬天狗だと評する声もあるようです。
ここではそうした業績のことはさておき、
白洲次郎という人が日本のゴルフに果たした功績を、
あらためて称揚したいと思います。
すべての要職からリタイアしたした白洲次郎は、
自らメンバーでもあった軽井沢ゴルフ倶楽部の理事、常任理事を歴任して、
そのあと理事長に就任しました。
ここで逸話のかずかずをあげるときりがないのでやめておきますが、
要約するなら、ゴルフの王道を説いたということになるでしょう。
それが遊びであれば、なおのこと、原則(プリンシプル)を遵守すべきだと、
そのことだけをうるさくいったのです。
一国の宰相であれ、マナーに反すればこれを叱りつける・・・、
キャディの窮状には、親身になって手をさしのべる・・・、
そうした別け隔てのないやさしさもさることながら、
日本のゴルフをなんとか世界標準のものにしようと努めたことでは、
白洲次郎という人はやはり先駆的な存在でした。
プレイが滞って、あとからくるメンバーに迷惑をかけないようにと、
Play fast !’ の言葉をTシャツにプリントして、
軽井沢ゴルフ倶楽部のスピリットとしました。
オノフは、こうした先人たちに学んで、
大人のゴルフライフのパートナーでありたいと願っています。